つのせと二ッ井戸のあゆみ

つのせと二ッ井戸のあゆみ

長年にわたるつのせの歴史のなかで、どういった経緯で粟おこしづくりが始まったのか、実際どのように多くの方々に親しまれていたのかについて、ご紹介いたします。
はるか昔より誕生した当社の粟おこしが、誰にも親しまれる和菓子として在り続けてきた、その歩みをご覧ください。
また、つのせと二ッ井戸のつながりを通して、その名が加わるようになった由来をご紹介いたします。

つのせのはじまり

そもそも粟おこしが誕生したのは、1752年(宝暦2年)でした。
それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状しか ありませんでした。
それを当社の初代、津の国屋清兵衛(つのくにやせいべい)が、板状に延ばし 現在の粟おこしの形状を確立しました。
また、粟おこしと命名された由来は、お米(引割米)の小さな粒が、粟のように見えることから「粟のようなおこし」すなわち、「粟おこし」とされたことにあります。

絵:「守貞漫稿」(喜多川秀荘著・つのせ蔵)より天保~寛永頃の津の国屋の店構え。

「大阪道頓堀二ツ井戸西津の国屋清兵衛専ら之を製し売りて今世名物となり、各月毎日所要の黒糖を用ふること海内一とす。」

広がるお客様と名声

つのせの粟おこしが繁盛した様子は、昔の書物にも記されているほど。
喜田川守貞という絵師の著書「守貞漫稿」をはじめ、近松門左衛門の有名な浄瑠璃「生玉心中」や、山崎豊子の小説「のれん」にも書かれています。
また、国内の博覧会をはじめ海外からもご好評いただき、 これまでに内国勧業博覧会や各種菓子博覧会、パリ・ロンドンでの博覧会などで最高賞を受けました。
また、庶民のおやつだった粟おこしが大阪土産として広く知られるようになったのが昭和45年に開催された「日本万国博覧会」。
有名な太陽の塔の下に出店し、大阪のお土産として飛ぶように売れ、万博が開催されていた半年間、工場は連日24時間フル稼働の状態でした。

つのせと二ッ井戸(二ッ井戸の由来)

二ッ井戸とは、長方形の井桁の中央を石板で仕切ることにより形成された二つ並びの井戸をいいます。
つのせと二ッ井戸のつながりを通して、つのせの名に冠せられた由来をご紹介いたします。

仁政の鐘と二ッ井戸

徳川幕府3代将軍・家光は寛永11年(1634)大坂城に入って、大坂三郷の地子銀(固定資産税)免除を宣言しました。
当時の大坂三郷の地子銀は年間178貫934匁と言う巨額で、これが永久に免除されると言うので町民は大感激したそうです。
この恩恵に感謝し、それを忘れぬために時を知らせる釣鐘を作りました。
これが「仁政の鐘」です。

この「仁政の鐘」を鋳造する際に、使われた井戸水が二ッ井戸であると伝えられています。
当時、石を「四ッ組」にした井戸として珍しがられ、浪速名所のひとつとされていました。
右の版画「浪華名所獨案内」(なにわめいしょひとりあんない)は、当社と大阪城天守閣の2カ所にしか現存しない、大阪の名所が描かれた古地図です。天保年間(1830年~1844年)に友鳴松旭が描き、平野町通淀屋橋に店を持つ石川屋和助(書肆、本屋・出版社)が出版しました。

地図中央に「二ッ井戸」と「ツノセ」の文字があります。

二ッ井戸への想い

明治22年、この地域の区画整理がおこなわれ、二ッ井戸が埋設されることになりました。
そこで当時、つのせの五代目が埋設されることを惜しみ、井戸の側石の払い下げを受け、店頭に移したのです。